――一時間目の国語の授業が終わり、休み時間に入った頃。
「えーっと……次は算数算数、っと」
机の上に広げていた国語の教科書をたたんで机にしまいこみ、入れ替わりに算数の教科書とノートを取り出す。
「昨日の宿題、ちょっと分かんないところがあったからなぁ……あとで先生に聞かなきゃ」
ぱらぱらとノートをめくり、何も書かれていない真新しいページを探す。ノートを広げ終えて、これで準備は整った。
「これで準備オッケー、かな」
ともえがそう言って、軽く伸びをしたところへ。
「にょほほ〜。ともともっ、遊びに来たぞよ!」
「あっ、まりちゃん!」
教室の入り口から、元気のいい声が聞こえてきた。ともえはすぐにその声に反応して、顔を廊下側へと向ける。ともえの見た先には、スキップしながらこちらへやってくる同級生の姿があった。
「まりちゃん、今日も楽しそうだね」
「にゃはは。まりえはいつだって、ハッピーでラッキーで楽しいのが一番だぞよ! 見よ! 天に浮かぶ幸運の星! 略してラッキースター! こなたんはまりえの嫁! 異論は認める!」
ともえの前に現れたのは、まりえ――本名・花本真理恵――という少女だった。金色の縦ロールが目を引く、陽気で屈託の無い性格である。ともえとは小学校の入学以来、つまり四年来の親友である。
「うにゃー。最近ぬっくぬくで過ごしやすいけれ。まさに春爛漫の面目躍如だなっ」
「そうだよね。少し前まで寒かったから、過ごしやすいのはうれしいよね」
「んにゅ。子供は風の子風子も風の子とは言うけれども、やっぱり寒さにゃあ勝てないぞよ」
腕組みをしながら、まりえがしみじみとつぶやく。
「あ、そーだそーだ。今日はもえもえに紹介したい超絶豪華ゲストを連れてきたぞよ! 見て見て驚けっ!」
まりえの話し方は軽妙で、独特の言い回しが多い。一度聞くと、なかなか忘れる事ができないくらいだ。
「豪華ゲスト?」
「んに。もう豪華すぎて出血多量請け合いぞよ〜。ささっ、こっちへ来るけれ」
「う、うん……」
ともえの教室へやってきたのは、まりえだけではなかったようだ。まりえがドアに向けてちょいちょいと手招きすると、恐る恐る、一人の同級生が教室の中へと入ってきた。同級生がともえとまりえの側にまでやってきたのを確認して、まりえが同級生の手を取った。
「まるっと紹介っ! 今年まりえと一緒のクラスになった、春日野歩美ことあゆあゆだぞよ!!」
「え、えっと……こういうのって、普通あだ名を先に言うものだと思ってたんだけど……と、とりあえずっ、は、初めましてっ」
緊張しきった様子で、あゆあゆ――もとい、歩美が頭を下げた。ともえはにっこり笑って、歩みに返事をして見せた。
「はじめましてっ。歩美ちゃん、でいいかな?」
「う、うん……えっと……なかはら……さん?」
「うん、中原ともえっていうの。好きに呼んでくれていいよ、歩美ちゃん」
「あ……うん。中原さん、ありがとう」
ともえに会釈を返してもらって、初めて歩美が落ち着いたように息をついた。大きな瞳をパチパチさせて、
「にゅ〜ふっふっふっふっ。ともともっ、聞いて驚くなっ。あゆあゆはとある魚型の焼き菓子を持ったまま商店街を一分で駆け抜けられる程度の能力の持ち主なんだぞよ!」
「うぐっ?! な、なんでそんなヘンな能力を持ってることにされてるの?!」
「へぇ〜。歩美ちゃん、用途はぜんぜん分かんないけど、ものすごい能力を持ってるんだね!」
「違うよっ! そんな能力持って無いよっ!」
どう見ても適当に言っただけのまりえの「能力」発言に、ともえは素で同調している。まったく疑っていないようだ。そして被害者(加害者:まりえ)の歩美はあること無いことを言われて、火消しに躍起になっている。歩美が教室に入ってものの数分で、まったく意味の分からない状況が完成してしまった。これがまりえパワーである。
「とまあ、こんな感じでとっても奇跡ちっくな女の子けれ。ともともも仲良くしてやってくれろ」
「もちろん! 歩美ちゃん、これからもよろしくね」
「……うんっ! 中原さん、花本さん。二人とも、ありがとうだよっ!」
歩美はにっこり微笑んで、胸元で両手を合わせた。
「良かったよ〜。引越ししてきて友達ができるか心配だったけど、もう二人も友達になってくれたよ〜」
「そっか……歩美ちゃん、転校してきたんだね」
「うん。それで、すごく不安で、誰に話しかけたらいいのかな、って思って……」
話を聞くと、歩美はこの四月に萌葱小学校に転校してきたばかりだった。最初に少し、教室の前で戸惑ったような様子を見せていたのは、まだ一度も他のクラスの教室へ入った事がなかったからだったようだ。
「そうだよね。やっぱり、不安だよね」
「うん。でも、そこで花本さんが話しかけてきてくれて……わたしと、友達になってくれたんだよ」
まりえは一人ぼっちでいた歩美に声を掛けて、友達になってあげたようだった。それが歩美にとってどれほどありがたかったか、想像するのは難しくない。陽気に笑うまりえの表情は、さぞ心強いものに見えただろう。
「んむ! これであゆあゆはもう一人ぼっちじゃなくなったけれ! めでたいのう、めでたいのう!」
「うん……花本さん、ホントにありがとうっ」
「にゃーはっはっはっはっ! あゆあゆが笑顔になったなら、まりえはそれが一番うれしいぞよ!」
「歩美ちゃん、よかったね! わたしとも、また一緒に遊ぼうよ」
「うんっ! もちろんだよ!」
高らかに笑って、まりえが歩美と固く握手を交わした。もう、歩美の表情に戸惑いや怯えは無い。ともえは歩美の様子を見て、安堵した表情を浮かべた。
「およ! もうこんな時間だぞよ! あゆあゆっ、そろそろ教室に戻って、にっくき理科をやっつけるぞよ!」
「あっ、うんっ! 中原さん、またねっ!」
「うん! またね、歩美ちゃん!」
もうすぐチャイムが鳴る。まりえは歩美を連れて、ともえのいる教室から出て行った。
(まりちゃんって、昔からあんな感じだなぁ……一人ぼっちでいる子を放っておけなくて、すぐに友達になっちゃう)
まりえの笑顔を思い返しながら、ともえが頬杖を付いた。その顔から、心なしか笑みがこぼれている。
(歩美ちゃんも、まりちゃんのおかげで独りぼっちじゃなくなったからね。まりちゃんって、やっぱりすごいよ)
ともえも友達は多いほうだったが、まりえにはそれよりもたくさんの友達がいた。誰とでもすぐに友達になってしまうまりえのことを、ともえは純粋に「すごい」と思っているようだった。
「よーし、皆、席に着けー。算数の授業を始めるぞー」
例によって間延びした口調の担任が教室に入ってくると同時に、始業を告げるチャイムが鳴った。ともえは姿勢を正して、授業が始まるのを待った。
――特に何事もなく、授業は進んでいく。
――これといって気になるような出来事も無いまま、ともえは放課後を迎えた。
「中原さん、明日でいいから、今日やった算数の問題、教えてくれないかな?」
「うん、いいよ。今からでも大丈夫だけど、どうしよっか?」
「あ……ごめんね。私、これから塾に行かなきゃ行けないの」
「そっか……それなら仕方ないね。じゃ、また明日!」
「うん。さようなら、中原さん」
ランドセルに教科書を詰めながら、ともえは友人と言葉を交わした。ともえはどちらかと言うと勉強がよくできる子だと見られていたから、こんな風に「分からないところを教えて欲しい」と言われる事は少なくなかった。ともえはそれに、快く応じていた。
「国語、算数、理科、社会……よし。これで全部、っと」
受けた授業の順番にきちんと教科書とノートを詰めてから、ともえはランドセルを背負った。忘れ物が無いことをしっかり確認して、さあ帰ろう、と、ともえが足を一歩踏み出した途端、何かを思い出したのか、その場ではたと立ち止まった。
「……あっ、そうだ。借りてた本、今日中に返さなきゃ」
図書室で借りた本の返却日が今日だったことを思い出したらしい。ともえはロッカーに向かうと、奥にしまいこんであった古びた文庫本を取り出した。カバーの無いその本の表紙には、擦れた字で「放課後の時間割」と書かれている。
「いい本だと思うんだけど、わたしの前、誰も借りて無いんだよね……」
裏表紙に貼り付けられている貸し出しカードを眺めながら、ともえはゆっくりと教室を出た。
――階段を上って、四階の図書室へ。
「……よいしょっ、と……」
少し重いドアを引いて、ともえは図書室の中に入った。
(この学校の図書室って、毎日こんな感じなんだよね〜……)
図書室の中はがらんとしていて、実際の広さ以上に広く感じる。ずらりと並んだ本は壮観だったが、目当ての本を探すのはなかなか骨が折れそうだった。ともえが見た限り、図書室の中に居るのは自分を入れて三人だった。
「あ、ともえちゃ〜ん!」
「珊瑚ちゃん! 今日の図書係、珊瑚ちゃんだったんだね」
「うん。もう一人来るはずなんだけど、掃除で遅れちゃってるみたいでさぁ〜……」
ともえに声を掛けてきたのは、深緑のツインテール(ともえの「二つ結び」に似ているが、珊瑚の髪はともえより段違いに長いので、あえてこう書く)がチャームポイントの図書委員、珊瑚であった。珊瑚は本を何段にも重ねて、少しよろめきながら歩いている。一気にまとめて片付けてしまおうという算段なのだろう。
そして。
「……………………」
もう一人、図書室にいる人影。分厚い本を何冊か広げて、ノートへしきりに何かを書き付けている少女が一人。見ての通り、勉強をしているようだ。紫のショートボブに、青色の大きなリボンが目を引く。ともえが記憶を手繰り寄せると、目の前の人物の名前はすぐに出てきた。
(確か……D組の、本庄さん、だったかな……)
本庄さん。ともえの在籍しているA組からは遠く離れたD組にいる、一風変わった生徒だった。ともえとは同級生であるが、クラスが遠すぎる事もあってか、話したことは一度も無い。
(うーん……そもそも、本庄さんが誰かと話してるのを見たこと無いけど……)
ともえが入ってきた事もまったく意に介さず、本庄さんはずっと勉強を続けているようだった。あまりに集中しているように見えたので、ともえは声を上げるのもためらわれた。集中力を途切れさせてしまうと思ったからだ。
(本庄さん、今日もすっごく勉強してるなぁ……)
ともえが図書室に来ると、本庄さんは決まって同じようなスタイルで勉強していた。本を何冊か並べて交互に読みながら、気になったところをノートに書き付ける。本庄はこうして、毎日勉強しているようだった。
「……………………」
「……………………」
以前、ともえは図書委員に話を聞いて、本庄さんが読んでいた本を見せてもらったことがある。が、何が書いてあるのかさっぱり分からず、目次を見ただけで投げ出してしまった。要は、とんでもなく難解な内容だったということだ。
(そういえば、本庄さんってすっごく賢いんだっけ……)
ともえが思わず頭を抱えたくなるような本を読んで勉強しているというのだから、本庄さんは当然の如く秀才だった。曰く、既に中学生レベルの勉強は終わっている。曰く、今読んでいる本は高校レベルの数学や物理の本だ。曰く、図書室にあるやたらと難しい内容の本は、本庄のために学校が購入したものだ……云々。事実とも虚報とも付かない噂が、本庄には飛び交っていた。だがその大部分は、多少の誇張はあれど概ね事実だったようだ。
「そーっと、そーっと……」
ともえが本庄さんの事を見つめている間に、珊瑚は自分の背丈よりも高く積んだ本を抱えて、ふらふらとよろめきながら歩いていた……
(ガッ)
……のだが。
「……あ」
積んだ本の先端が、本棚の端に触れてしまった。ぐらついていた本が、にわかに大きく揺れる。
「わ……わ、わ、わ、わわわわわわわぁ〜っ!!」
「……って、珊瑚ちゃん?!」
珊瑚の悲鳴を聞きつけたともえが彼女のほうへと振り向いた瞬間、バタバタバタという騒がしい音が響き渡り、
「わぁ〜っ?!」
その音が静まる頃には、
「ともえちゃ〜ん……助けてぇ〜……」
哀れ、珊瑚は運んでいた大量の本の下で生き埋めになってしまっていた。
「も〜……そんなにたくさん運ぶからだよ〜……」
半ば呆れつつも、ともえは涙目になっている珊瑚の元へと素早く駆け寄り、本を一つずつ机の上に避けていく。ともえが思っていた以上に、珊瑚はたくさんの本をまとめて運ぼうとしていたようだ。本を一通り片付けると、ともえは珊瑚の手を取って立ち上がらせた。
「はぐぅ〜……埃だらけになっちゃったぁ〜……」
「あーあー……はたいてあげるから、ちょっと両腕を広げてね」
埃まみれになった珊瑚の服をぱたぱたとはたいて、埃を床へと落としてやる。珊瑚の汚れっぷりを見る限り、図書室の掃除は随分おざなりなようだ。ともえは咳払いをしながら、珊瑚の服を綺麗にしてやった。
「……………………」
この図書室に似つかわしくない一連の騒がしいやり取りの中でも、本庄さんは勉強に集中していた。ともえはそれを、遠巻きに見つめる。
(こっちがドタバタしてる中で、あんなに集中できるなんて……本庄さんって、やっぱりすごいなぁ……)
例によって、ともえは本庄さんの事を「すごい」と思っているようだった。本庄は表情一つ変えず、ただ本とノートに向かっている。隣の騒ぎなど、自分の意識の埒外だと言わんばかりの態度だ。
「ふぐぅ……あの子も手伝ってくれたらよかったのにぃ〜……」
本庄さんの様子は、薄情さや冷徹ささえも感じられるものだった。珊瑚は涙目になりながら、相も変わらず勉強を続ける本庄に目をやった。本を運ぶのを手伝ってくれなかった事に、ほんの少し、恨めしげな視線を向けている。
「珊瑚ちゃん、本庄さんは図書委員さんじゃないから、仕方ないよ。それに、いっぺんに全部運ぼうとするんじゃなくて、何回かに分けて運べばよかったんだよ」
「うぅ〜……確かにぃ〜……」
「さ、わたしも手伝ってあげるから、本を片付けようよ」
「手伝ってくれるの?! ともえちゃん、ありがとぉ〜っ!」
ともえが手伝ってくれると聞いて、珊瑚がぱっと表情を明るくした。ともえは珊瑚と分担して本を持って、それぞれ元々納められていた本棚へと収めなおした。
「……………………」
本庄さんは最後まで、二人の方に目を向ける事はなかった。