「ただいま〜っ」
ともえがドアの鍵を開けて、自分の家の中へと入る。静かにドアを閉めて、ともえが靴を脱ぐ。
「ともえちゃんっ、お帰りなさいっ」
「わ、お母さん?!」
左足の靴を脱いでいる途中、奥からともえのお母さん――中原あさみ、漢字で書くと「中原朝美」――が、玄関に向かって走りこんできた。ともえは面食らって、思わず目を大きく見開く。
「はい! ともえちゃん、つーかまえたっ!」
「ち、ちょっとお母さんっ、わたしまだ靴片一方しか脱いでないよ〜……」
あさみはともえの目の前までやって来ると、有無を言わさずともえを抱きしめた。ともえは急に抱きしめられてあたふたしつつ、なんとか体勢を立て直す。あさみは満面の笑みでともえを抱きしめたまま、一向に離そうとしない。
「お、お母さん……うれしいけど、ちょっと苦しいよ……」
「昨日はごめんなさいね。ともえちゃん、一人にしちゃって……」
三つ編みに少し大きな眼鏡。そして何より、やけに若々しい顔立ち。あさみがともえを抱きしめる光景は、ともすると「お母さんが娘を抱きしめている」ではなく「お姉さんが妹を抱きしめている」ように見えた。
「大丈夫だよ。お母さん、今日はお仕事早く終わったんだね」
「ええ。おかげで、いつもよりも大分早く帰って来れたわ。ともえちゃんより早かったのなんて、久しぶりだもの」
あさみはともえを優しく抱きしめなおすと、ぽんぽんと背中を優しく叩いた。ともえもようやく落ち着いたのか、自然と顔から笑みがこぼれる。母親が家に帰ってきてくれて、ともえもまた嬉しいようだった。
「それにね、ともえちゃん。今日はお父さんも早く帰って来てくれるんだって」
「えっ?! ホントに?!」
「そうよ。久しぶりに、みんなでご飯が食べられるわ」
ともえの頭を撫でながら、あさみが父親が早く帰ってくることをともえに告げた。ともえは瞳を輝かせて、あさみの目を見つめる。
「今日はお母さんが腕によりを掛けて、いっぱいごちそうを作るわね」
「あっ、それなら、わたしも手伝うっ」
あさみの言葉を聞いて、ともえがすかさず手伝おうとする。
「いいのよ。昨日はともえちゃんを一人にしちゃったから、今日はお母さんが全部やっちゃうわ」
「ホントに? わたし、手伝えるけど……」
けれども、あさみは一人ですべて準備するつもりのようだった。あさみの優しい言葉に、ともえは申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、なおもあさみに食い下がる。
「いいのいいの。ともえちゃんは、ゆっくり待っててちょうだいね」
「……うん。ごめんね、お母さん」
にっこり笑うあさみを前に、ともえは少しばかり寂しげに笑って、小さく頷いた。あさみはともえの言葉を確認すると、静かにキッチンへと戻っていった。その背中を、ともえはじっと見つめる。
「……ちょっと、手伝いたかったな……」
消え入りそうなか細い声で呟いて、ともえは脱げ掛かっていた左足の靴を脱いだ。
あさみが夕飯の準備を進め、ともえがリビングにて宿題をしていたときの事だった。
(カンッ)
何かが手すりを打つ音が聞こえて、ともえがはっと顔を上げた。
(……この音、もしかして……)
ともえはシャープペンシルを栞代わりに教科書に挟み込んで、椅子を引いて立ち上がる。窓のほうへと向かうと、ロックを解除して静かに引いた。
「わ、やっぱり……」
一歩外に出ただけで、ともえは何が起きているかを悟った。夕方から少しずつ崩れかけていた天気が、夜になって雨に変わってしまったのだ。
「お母さん、雨降ってきちゃったみたい……」
「あらあら……困ったわね。お父さん、傘を持っていってないはずだから……」
エプロン姿のあさみが、泡だて器を持ったままともえの近くまでやってきた。頬に手を当て、暗くなった空を見上げる。夜の闇に浮かぶ分厚い雲は、これから雨脚が更に強くなる事を暗示しているようだった。
「それなら、わたしがお父さんを迎えに行ってくるよ。駅で待ってれば、必ず会えるしね」
「ともえちゃんが行って来てくれるの? 助かるわ。それじゃ、お願いしてもいいかしら?」
「うん! わたしに任せて!」
「ふふっ……ともえちゃん、頼もしいわね。お母さんもうれしいわ」
微笑むあさみに、笑顔を見せるともえ。ともえはさっと身を翻すと、玄関に置いてあった自分の傘と父親の傘を手に取り、運動靴に履き替えた。
「お母さん、行ってきますっ!」
「分かったわ。ともえちゃん、車にはくれぐれも気をつけてね」
あさみの声を聞き終えてから、ともえはドアノブを回した。
――日和田市・東新開駅にて。
「もうすぐ来るはずなんだけど……」
ともえは二本の傘を抱えて、父親が改札口から出てくるのを待った。雨脚は強くなる一方で、傘を持っていない人たちが濡れながら家路を急ぐ姿があちこちで見られた。ともえは体が濡れないように、駅舎の奥で一人待ち続けた。
「……………………」
駅舎に入ってから、およそ十五分後の事だった。
「……あっ! お父さ〜んっ!」
「ともえ?! ともえなのかっ?!」
改札口から出てきた父親に、ともえが声を上げて呼びかけた。父親はそれに気付いたようで、ともえの元へと駆け込んでくる。
「うおーっ! ともえーっ!!」
父親はやけに高いテンションで、ともえに向かって突撃してくる。
「お、お父さん……」
あさみのときと同じように、ともえはその場で困惑したように硬直する。父親の異様に高いテンションを見ていれば、ともえの反応はまあ妥当なところであるといえる。ともえの両親は揃ってこんな調子だ。小学四年生の娘がいるとは思えない、やけに若々しい風貌なのも同じである。
「ともえ、捕まえたぞーっ!」
「わっ?!」
「ふはははは! 逃げても無駄だっ! 抵抗するのをやめておとなしく従えっ!」
「あわわわ……そもそもわたし、逃げてないよ〜……」
母親とまったく同じ展開で、ともえは父親――中原たかし。漢字で書くと中原隆史――に強く抱きしめられた。ともえはまたしても困惑しつつ、父親の胸の中に顔をうずめた。
「ああ……ともえ、お前はなんて愛らしいんだ……思わず父さんの中の獣が覚醒しちまうぜ……」
「えーっとぉ……お父さん、わたし、まだ小学生なんだけど……」
一歩間違うと逮捕されかねない発言をかます隆史に、ともえがわずかに引きながら応じるのであった。気苦労の絶えない少女である。
「しかしともえ、よく迎えに来てくれたな。父さんは嬉し過ぎて、もうショック死寸前だぞ」
「死んじゃダメだよ……それはともかく。雨が降ってたから、お父さんを迎えに来たんだよ」
「そうか……しかし、ともえが出迎えてくれるとはな。今日は一日、最高にハッピーに過ごせそうだぜ」
「うーん……もうすぐ、終わっちゃいそうだけどね、今日……」
現在時刻は十九時三十分。確かに、今日は後四時間半ほどで終わってしまいそうである。
「よし、ともえ。父さんと一緒に、このまま駆け落ちとしゃれ込もうか」
「か、駆け落ち?!」
「ああ。知床でも札幌でも稚内でも、どこへでも連れてってやるぜ!」
「……選択肢が北海道限定なのは、なんでだろう……?」
隆史には北海道に行きたい理由でもあるのだろうか。ジャガイモを食べたいとか、雪まつりが見たいとか。
「お父さん。北海道もいいけど、お母さんが家でごちそうを作って待ってるよ」
「……はっ! 父さんとしたことが、朝美のことをすっかり忘れてたぜ……」
「も〜……お母さんが聞いたら、また泣いちゃうよ?」
ともえは呆れつつも、抱えていた大きいほうの傘を隆史に手渡す。
「はい。お父さんの傘だよ」
「おう。待たせてすまなかったな」
隆史はともえから傘を受け取ると、ようやく少し落ち着いた様子を見せた。
「それじゃ、一緒に帰ろっ」
「ああ。朝美を待たせるのは、俺のプライドが許さねぇからな」
ともえと隆史は揃って傘を広げて、足並みをそろえて歩き始めた。