アトリエに入り、ともえがランドセルを下ろしてソファに腰掛ける。ふぅ、と息をつくともえを、リアンが微笑ましげに見守っていた。
「そうだ。今日はともえちゃんに、あたしのパートナーを紹介するわ」
「パートナー?」
リアンの「パートナー」という言葉に、ともえが目を真ん丸くする。リアンは軽く頷くと、
「ほら、あっちあっち」
「?」
ちょいちょいと事務机の上を指差す。ともえが事務机に目を向けると、そこには一匹の白猫が、とても気持ち良さそうに眠っていた。目を糸のように細め、体をくるんと丸め、規則正しく寝息を立てている。セルリアンブルーの首輪が、雪を思わせる白い毛並みの中で、ひそかに自己主張をしているように見えた。
「わぁ……可愛いねこですねっ」
ともえがキラキラと瞳を輝かせる。目の前にいる猫はふわふわの白い毛に覆われ、小さな体を丸めて、糸のような目で眠っているのである。これが可愛くないはずもなかった。ともえが近づき、白猫を観察しようとする。
「……?」
「あ、起こしちゃった……?」
と、その途端。近づいてきたともえに反応したのか、猫が薄目を開けた。ぱちぱちと瞬きをしてから、しっかりと目を開いて、ともえの姿を捉える。
「……………………」
「……………………」
そのまま、ともえと白猫がお見合い状態になる。曇りの無い瞳で自分を見つめるともえに、白猫が――
「ふぅん……アナタがともえね、なかなか可愛い顔してるじゃない」
「……しゃ、しゃべった?!」
不意に口を開いて、ともえに声を掛けたのである。目の前にいる白猫が突然話し始めたことに驚き、素っ頓狂な声を上げた。白猫はのそのそと起き上がると、ともえの顔を嘗めるように見つめた。
「リ、リアンさん、この子、一体……?!」
「ふふっ、ビックリしたみたいね。ルルティ、元の姿に戻ってちょうだい」
「分かったわ」
ルルティ、と呼ばれた白猫から白い光が溢れだし、ルルティの全身を包み込む。ともえが魔女見習いへ変身するときと、まったく同じ光景が繰り広げられた。
「光が……」
ともえがルルティの前でしばらく待つと、光の漏出が止み、徐々にルルティの「元の姿」が明らかになってくる。
「驚かせちゃったみたいね。これが、私の本当の姿よ」
「すごい……白猫が、女の子に……」
事務机に腰掛ける、ともえより一回り小さな女の子。それが、ルルティの正体だった。猫の耳を思わせる飾り物の付いた、ふわりとした真っ白なフードを身に付け、ともえにセルリアンブルーの瞳を向けている。雪のような白い肌に、フードから覗く銀色の髪。ルルティはすました顔でともえを眺めながら、これまたふわふわのブーツを身につけた足をぷらぷらと揺らす。
「私はルルティ。リアンの使い魔よ」
ルルティが改めて名を名乗り、話を始めようとする……のだが。
「か……」
「細かい話は、リアンから聞いてちょうだい……って、ともえ?」
本来の姿を現したルルティに、ともえがこれまでになく瞳をキラキラと輝かせる。ルルティはともえの様子がおかしいことに気付いたが、その時にはもう、ともえは動き出していた。
「可愛いぃ〜っ!」
「ちょ、ちょっと……きゃあっ?!」
ともえはルルティの背中へ一瞬で手を回すと、そのまま強く抱きしめてしまった。ルルティは突然の事に戸惑い、小さく悲鳴を上げる。ともえは構わず、ルルティを胸の中へと抱き込んだ。
「可愛い……可愛いよ〜っ!」
「ち、ちょっと……!」
猫耳付きの真っ白なフードを被った、年下の小さな女の子。可愛いものが大好きなともえが、これに反応しないわけがなかった。
「リアンっ! な、なんとかしてよっ、これ!」
「いや〜、やっぱり可愛いわよねぇ。ともえちゃんの気持ち、分かるわぁ」
「リ、リアン?!」
ルルティはリアンに助けを求めてみるが、リアンはそばでニヤニヤ笑うばかりで、まるで役に立たなかった。ともえはルルティをぎゅっと抱きしめ、ゆっくりとほお擦りをする。
「可愛い……♪」
「あ、結構もち肌……って、こ、こら! い、いいかげんにしなさい!」
可愛さのあまりルルティをかいぐりかいぐりしていたともえのほっぺたが意外に気持ちよかったのか、ルルティは一瞬気持ち良さそうな顔をしたが、すぐに慌てて声を上げる。それに至ってともえははっと顔を上げ、直ちに距離を取った。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「あれ? あっ、ええ……わ、分かればいいのよ……」
思いのほかあっさりともえがほお擦りを止めて距離を取った事に、ルルティは意外そうな表情をしつつ、何とかすまし顔を取り繕って見せた。ともえはやりすぎてしまったと反省しているのか、些かうつむき加減である。
「すみませんでした。あんまり可愛かったので、ついやりすぎてしまって……」
「そ、そんな、まともに謝られても……」
「ふふっ、二人とも、可愛いわねぇ」
深々と頭を下げるともえに、ルルティは困惑してしまう。リアンはともえとルルティのやり取りを、相も変わらず微笑ましげに見つめるばかりだ。
「許して……くれますか?」
「う、うぅ……」
不安げな表情でもって、自分を見つめてくるともえ。ルルティは声が出ない。ルルティの目は、ともえのほんのり紅く染まった頬に向けられていた。先程の感触を思い出すと、あながち怒るわけにも行かなかったのである。
「う〜……」
ともえにちらちら困惑気味の視線を向けてから、ルルティはようやく口を開いた。
「……こ、今回は許してあげるわ」
「本当ですか? ありがとうございますっ」
「……ただし、一つ条件があるわ」
「条件?」
ルルティは幾分落ち着きを取り戻すと、ともえにこう言った。
「……もう一度、ほお擦りしてくれたら許すわ。もちろん、ゆっくりよ」
「え? また、やってもいいんですか?」
「二度も言わせないの。ほら、早くなさい」
「あっ、はいっ」
ともえは、今度はルルティを穏やかに抱くと、先程よりもさらにゆっくりと時間を掛け、ほお擦りを始めた。
「わぁ……ふわふわのふにふにですっ」
「もう……最初から、こうしてくれれば良かったのよ」
口ではそう言いつつ、ルルティの表情は分かりやすく綻んでいる。
「気持ちいい……♪」
「そうそう、それでいいのよ。それで、許してあげるわ」
「なーにが『許してあげるわ』だか。気持ち良さそうな顔しちゃってさー」
ともえのほお擦りを堪能するルルティ。先程はただ単にビックリしただけで、ほお擦りそのものは気持ちよかったようだ。ともえもルルティを再び抱きしめ、顔からうれしさがあふれ出ている。リアンはルルティをからかいつつ、にやりと笑うのだった。
「ふぅん……ま、なかなかいい子を見つけたじゃない、リアン」
「へぇ〜。ほっぺたで善し悪しが決まるってのも、なかなか無いわよねぇ」
「それだけじゃないわよ。私だって、ちゃんと見てるんだから」
「そんなもんかしらねぇ」
うっとりした表情でほお擦りをするともえを、ルルティは微笑みながら見守る。
「そうね。リアンにも、これくらいの可愛げがほしいところね」
「そりゃあ、あたしがあんたに言いたい事よ。ま、お互い様ってとこかしら、ね」
「ふふ……そういうことにしておきましょうか」
リアンとルルティの会話を見る限り、この二人、普段からこんな調子のようであった。
「……ようやく落ち着いて話ができそうね。リアン、アナタも席についてくれる?」
「いいわ。いろいろと、言わなきゃいけないこともあるしね」
のっけからほお擦り合戦というわけの分からない展開になってしまったが、とりあえずいつまでも続けているわけには行かないと、リアンとともえが丸テーブルの足長いすに座った。ルルティは事務机に腰掛けたまま、二人を見つめる。
「私はルルティ。リアンの使い魔をしているわ。普段はさっきみたいに白猫のような姿をしてるけど、実体は……ま、こんなところよ」
「使い魔、なんですか……」
「ええ。とは言っても、何でもかんでも、リアンの言う事を聞くわけじゃないわ。私は、あくまで自由だもの」
「平たく言えば、気まぐれってことよね」
実に猫らしい性格だわ、と、リアンが付け加えた。ルルティはふん、とそっぽを向くと、再びともえに視線を向ける。
「で、アナタがともえね。リアンから話を聞いてるわ。リアンがぞっこんになってる事も含めてね」
「ぞ、ぞっこんですか?!」
「待てぃ白猫! 女が女に惚れて何が悪いっ!」
「ええっ?! そこ否定しないんですか?!」
ルルティの言葉を否定するかと思いきや全力で開き直るリアンに、ともえはとにかく驚くしかなかった。
「呆れた主は放っておいて……リアンの言うとおり、素質は十二分ね。傘の一件、聞いたわ」
「さっきのことですね」
「ええ。人を褒めるのは性質じゃないけど、アナタは客観的に見ても優れてるわ。私に褒められたんだから、期待しなさい」
「……とまあ、とっても気ままな猫ってわけ。昨日来てくれたときも、散歩に出かけてたしね」
昨日アトリエにルルティがいなかったのは、散歩に出ていたからだったようだ。
「普段はこんな風に、あたしの話し相手になってくれてるってわけよ」
「そうなんですか。たしかに、リアンさんとルルティさんが話してるのを見ると、楽しそうです」
「私はもうちょっと素直な主が欲しかったけどね……けれど、お互い爪弾き者同士。相性は悪くないと思うわ」
「……ま、爪弾きってのは否定しないわ。それがあたしの生きる道だしね」
髪の先っぽを弄びながら、リアンが少し物憂げな様子で呟いた。
「そうだ、一つ、勘違いしないように言っておくわ。私とリアンは『魔女と使い魔』って関係だけど、これは魔女の間じゃ一般的なことじゃないの」
「魔女と使い魔って、実は珍しい取り合わせなんですか?」
「そう。普通、魔女には『妖精』がいるものなのよ」
妖精、という言葉を聞いて、ともえが目をパチパチさせる。魔法、魔女、使い魔、妖精と、非現実的な単語が毎日出てきている中にあっても、ともえはそれらへの興味と刺激を失わずにいるようだ。
「ま……見ての通り、あたしには妖精がいない代わりに、使い魔のルルティがいるってカタチだけど、ね」
説明を終えた後、リアンはふぅ、と小さく息をついた。
「……何はともあれ、知り合えたのも何かの縁ね」
「あ、はいっ」
ルルティから差し出された手を、ともえがしっかりと取る。
「気が向いたら手を貸すわ、ともえ。頑張ってちょうだい」
「はいっ。ルルティさん、ありがとうございます!」
そのまま、二人は固い握手を交わした。