――翌朝。
「ともえちゃん、今日は少し遅くなっちゃいそうだけど、大丈夫かしら?」
「平気だよっ。わたしがご飯を作って、お父さんとお母さんが帰ってきたら食べられるようにしておくね」
「よっしゃ! ともえの料理のためなら、通常の百倍の速度で仕事を片付けるぜ!」
「お父さん、そんなに頑張ったら、体を壊しちゃうよ〜」
平時のように登校の支度を済ませ、ともえが履きなれた運動靴へ履き替える。黄色い通学帽を被り、少しばかり緩くなったゴムを首に引っ掛ける。
「お父さん、お母さん、行ってきます!」
「おう! 頑張って来いよ、ともえ!」
「気をつけてね、ともえちゃん」
両親と挨拶を交わし、ともえは外へ繋がるドアを開いた。
ともえはいつも規則正しく同じ時刻に家を出ているが、他の生徒たちはそうとも限らないようだった。
「……あれ? あの後姿……」
見慣れた、けれどもこの時間帯には見慣れぬ後姿が、ともえの目に飛び込んできたからだ。
「……………………」
道端で不自然に立ち尽くしている同級生に、ともえが小走りで近づいてゆく。
「関口さんっ!」
そこにいたのは、学級委員のみんとだった。
「……中原さん……?」
みんとはさっと振り向くと、ともえにすっと目を向けた。昨日掃除中にともえから声を掛けられたときに見せた、少しばかり驚きの色を帯びた表情だった。恐らく、ここで声をかけられるとは思っていなかったのだろう。
「関口さん、こんなところに立って、どうしたのかな?」
「……………………」
ともえから問いかけられて、みんとがわずかに目を伏せた。
「……大丈夫。ただ、忘れ物をしただけだから……」
「忘れ物……?」
みんとから発せられた言葉に、ともえが彼女の様子を下から上へと順番に窺う。あるポイントまでたどり着いた時、ともえは自分にあり、みんとには無いあるものの存在に気が付いた。
「もしかして……通学帽、かな?」
「……………………」
図星だったようだ。みんとが小さく頷いた。心なしか、表情が浮かない。
「……今日、持ち物検査があったはずだから……」
「あっ、そういえば……」
みんとの表情が曇っていたのには、理由があった。持ち物検査がある日にも拘らず、通学帽を忘れてしまったからである。
「そっか……そういうことだったんだね」
「……………………」
無言で頷くみんとに、ともえが声を掛ける。
「まだ時間も早いし、家に取りに行ったらどうかな?」
「……それは、できない。それは……」
「今からだと、家には戻れない、かぁ……」
ともえの提案に、みんとが首を振る。時間的な問題があるのか――口ぶりからは、どうも時間の問題ではなさそうにも見えるが――、今から家に戻ることはできないようだ。
「……忘れてしまったのは、私の責任。けれども……」
「……………………」
「……できることなら、何とかしたい……」
みんとは追い詰められた表情を浮かべて、絞り出すような声で呟いた。通学帽を忘れてしまった過失を十分に認めつつも、この場を乗り切る方法を欲している。
「……学級委員が忘れ物をするようなことがあったら、みんなが忘れ物をしても気にしなくなってしまうかもしれない……それは、良くないこと」
「……………………」
「……けれども、私は事実として忘れ物をしてしまった。それは、受け入れなきゃいけない……」
「関口さん……」
「……父上と母上には、忘れ物は無いと言って出てきてしまった……」
「……………………」
「……もし、戻るような事があっては、父上と母上に嘘をついたことになってしまう……」
家には帰れない、けれども通学帽は無い。学校では持ち物検査が控えている。持ち物検査で引っかかれば、何がしかの指導は避けられない。学級委員がそれで良いのか。否、良いわけが無い。この状況を打開しなければならない。だが事実として通学帽は無い。通学帽は無いのだ。
「……私は、どうすれば……」
ひとしきり呟いた後、みんとが擦れた声で言う。普段見せたことの無い、焦燥感に満ちた弱弱しい表情だった。
「……………………」
隣にいたともえは、澄み切った瞳でみんとを見つめている。みんととは対照的に、その表情に曇りや焦燥は一切見られない。既に、自分が次に起こす行動を決めている表情だった。
「……関口さん、すごく真面目なんだね。わたし、関口さんのこと、すごいと思うよ」
「……………………」
「みんなのことも、お父さんとお母さんのことも考えて……悪い事を真似しないように、嘘をつかないようにしたいって思ってるんだね」
「……………………」
「でも、忘れ物は誰にだってあることだよ。わたしだって、たまにやっちゃうしね」
「中原さん……」
ともえの言葉に、みんとがそっとともえに視線を向ける。
「だから、こう考えてみたらどうかな?」
「……?」
その台詞を言い終えるや否や、ともえは――
「……よっと!」
「……中原さん……?!」
「そう。今日忘れ物しちゃったのは関口さんじゃなくて、わたしの方だった、ってことだよ」
――みんとの頭に、自分の通学帽を被せたのだった。
「……そんな……! 中原さん、それだと、中原さんが……」
「わたしは大丈夫! 今年はまだ忘れ物一回目だし、適当にごまかしちゃえば、なんとかなっちゃうよっ」
途方も無くあっけらかんと言い放つともえに、みんとは二の句が継げない。あまりにあっさりと、ともえが自分に通学帽を貸してくれた。みんとはその事実自体、まだきちんと受け止め切れていない。
「……でも、やっぱり……」
「あ、そうだ……裏に名前が書いてあるから、それだけバレないようにしてね」
ともえの感心は帽子の貸し借りをとっくに超えて、帽子が借りたものである事がバレないようにするための対策に移っていた。口を半開きにしたまま、みんとがどう声を掛けるべきか戸惑っている。
「な、中原さん……」
「持ち物検査は被ってるかどうかを見るだけだから、大丈夫だと思うけど……」
「……………………」
「……うん。たぶん、大丈夫だよ。これで、持ち物検査もへっちゃらだね」
一人で納得して頷くともえに、みんとは声を掛けあぐねるばかりだった。
「中原さん、本当に……」
「大丈夫大丈夫! しっかり被ってれば、バレずに済むよっ」
ともえが寸分の迷いも感じられない堂々とした態度で請合う様子を見たみんとは、ここに来て初めて、微かではあるが笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい。私のために、中原さんが……」
「気にしない気にしない! 誰だって、忘れ物くらいあるからね」
「……………………」
「それじゃ、学校まで一緒に行こっか」
「……分かった」
ともえとみんとは連れ立って、萌葱小学校へと向かった。
「今日は持ち物検査の日なのですぅ! 皆さん忘れ物はいけないのですぅ!」
メガネを掛けた女の子が、教室の前に立っているのが見えた。忘れ物をチェックする担当に当たっている同級生の少女・酒井さんだ。
「酒井さん、おはようっ」
「……おはよう、酒井さん」
「あーっと! 中原さんに委員長ですぅ! おはようございますですぅ!」
ともえとみんとが酒井さんに声を掛けると、酒井さんはぴしっと敬礼しつつ応じた。この酒井さん、真面目なところは良いのだが、それが少しばかり強すぎるところがあった。要は、融通が利かない性格ということである。
「今日は持ち物検査の日ですぅ! お二人の持ち物をチェックするのですぅ!」
そう高らかに宣言して、酒井さんが二人に近づく……が、その直後。
「あーっと! 中原さん、通学帽を被っていないのですぅ!」
「……あ、いけないいけない。被ってくるの、忘れちゃってたよっ」
ともえが早速通学帽で引っかかり、酒井さんにびしぃと指で指されてしまった。ともえは「やっちゃった」とでも言うような悪戯っぽい表情を見せて、頭にポンと手を当てる。その仕草はごく自然で、酒井さんは疑う素振りすら見せない。
「中原さんっ! 通学帽を忘れちゃダメなのですぅ! 通学帽は交通事故の防止に役立つ、大切なものなのですぅ!」
ぱたぱたと腕を上下させながら、酒井さんは通学帽の重要性を訴える。言っている事に間違いは無いが、些かテンションが高い。ともえはそんな酒井さんの前で、申し訳なさそう半分、おかしさ半分の表情で突っ立っていた。
「……………………」
酒井さんとともえのやり取りを、みんとが落ち着かない様子で見守っている。酒井さんが自分にどういった反応を示すかどうか、気が気では無いようだ。
「委員長は……?」
視線がみんとに寄せられる。みんとは身を硬くして、酒井さんの視線の行方を見守る。
「……………………」
幾ばくかの間を置いてから、酒井さんが口を開いた。
「やっぱり委員長はしっかり者ですぅ! ちゃんと被ってきてるのですぅ!」
酒井さんは通学帽の秘密に少しも気付かず、みんとはきちんと通学帽を被ってきていると言った。今度は通学帽をびしぃと指差し、被ってくるのを忘れた(と思い込んでいる)ともえに教育的指導を行う。
「中原さん、次は忘れちゃダメなのですぅ! 委員長を見習って、しっかり通学帽を被ってくるのですぅ!」
「はぁ〜い。明日からちゃんと被ってきまぁ〜す」
反省したようなしていないような微妙にとぼけた調子で、ともえが答えた。きちんと帽子を被ってきたしっかり者と、被るのを忘れてきてしまったうっかり者。酒井さんの目には間違いなくそんな様子で、ともえとみんとが映っていた事だろう。ともえの思惑通りの展開だった。
「酒井さん、おはようございますですわ」
「あーっと! 高槻さんなのですぅ! 持ち物検査を始めるのですぅ!」
「構いませんけど、乱暴はなさらないでくださる?」
「ことと次第によるのですぅ! 持ち物検査は時に非情なのですぅ!」
後からやってきた珠理が声を掛けると、酒井さんはともえとみんとをそれ以上検査しようとせず、珠理の持ち物検査に入ってしまった。タイミングを見計らい、ともえとみんとが酒井さんからそっと離脱する。
「……うまくいったねっ。酒井さん、全然気付かなかったみたいだよ」
「……中原さん、ごめんなさい。私が、通学帽を忘れてしまったせいで……」
「いいのいいのっ。関口さんには、いつもお世話になってるしね」
みんとの肩にそっと手を載せて、ともえが口元に笑みを浮かべた。
「今わたしが帽子を被ったら、酒井さんに変に思われちゃうと思うから、放課後になったら返してくれるかな?」
「……分かった。必ず、返しに行く……」
ともえはみんとにそう言付けると、しゃきしゃきと自分の席まで歩いていった。
「中原さん……」
自分の窮地を救ってくれたともえのことを思いながら、みんとがともえの通学帽を脱ぎ、帽子のツバにそっと力を込めた。
「身体チェックですぅ! 全身をくまなくチェックするのですぅ!」
「ち、ちょっと酒井さん?! 貴女、どこを触ってらっしゃるの?!」
「動かないでほしいのですぅ! 前にシャツの中におまんじゅうを隠し持っていた子がいたのですぅ!」
「それにしても、触り方が執拗過ぎませんこと?!」
「だめなのですぅ! 持ち物検査は時に非情なのですぅ!」
「その台詞、さっきも聞きましたわよ?!」
「……………………」
後ろで少々いかがわしいやり取りを繰り広げる二人の声も、みんとには届いていないようだった。