逆さにしたって、溜息しか出ない。
「……こんなんじゃ、ランク入りは無理か……」
伸びないページビュー。社交辞令に過ぎないコメント。沈黙を守るレーティング。
「なんであんな絵がトップを突っ走って、あたしのが……」
不平を言いかけて止める。昨日、ランク入りしたあの絵を見て、無意識のうちに★10を付けていたことを思い出した。敗北を既に認めている証。
「……どうでもいい。あたしは、あたしの絵を描くだけ」
言ったところで手は動かない。口と手が喧嘩するのは、日常茶飯事。こんなことはもう一度や二度じゃない。
伸び悩みの時期、とでも言うんだろうか。スランプって便利な言葉があるのを思い出した。それだ。
創作した絵で交流できるSNSがあるとネットニュースで目にして、βの時点から登録して使っていた。登録者が絵を登録して、他の利用者がコメントやレスポンス、レーティングを自由に行える仕組み。あたしはそれまで使っていた個人サイトを閉鎖して、見せてもいい作品をそのサービスに移した。そこなら、人の目にも作品が触れやすいと思ったから。
あたしは飢えてた。或いは、渇いてた。何に? 他者からの評価に。誰かに絵を見てもらいたい。評価を受けたい。できるなら褒められたい。ありていに言えば、構ってちゃん。
最初はよかった。見ず知らずの人があたしの絵にコメントやレーティングを行って、かなりの刺激を受けた。そこから伸びていった部分があるのも否定はしない。何人か親しい人もできた。小さいけどオフにも出た。それまで避けていた分野にも手を出した。いい影響があったのも否定しない。
けど、そこまでだった。コメントに刺激を受けなくなり、いい子ぶった上っ面だけのレスポンスを返す日々が続く。自分にとって新しい分野は、他の人がすっかり開拓済みだった。勝負にならない。他人と自分を比較しては、諦観と嫉妬の念が鬱積する。誰にも責任は無い、ただ、あたしの内面がささくれ立ってるだけ。
「……切らしてたんだった」
精神安定剤代わりのキシリトールガムを口に放り込もうとして、ケースの中が空っぽになっていることを思い出す。ペンタブを放り投げ、藪から棒に立ち上がる。
不恰好にふらつく心には、気軽に依存できるスタビライザが必要だ。
「……品揃え悪すぎ」
あのコンビニはダメ。しょっちゅう青を切らしている。緑は甘すぎるから好きじゃない。けど、何も噛んでいないよりはマシ。マシなだけで、それ以上のものは得られない。
次に何を描こうか思案する。どうすれば上へ行ける? オリジナルは思いの外ウケない。風景画はスルーされる。どうすれば上へ行ける? 人工歌姫は敵わない相手が多すぎる。幻想の郷はこの前描いた。どうすれば上へ行ける? 軽音楽は楽器が描けない。アイドルは躍動感に自信が持てない。どうすれば上へ行ける? 世界史よりも日本史が好み。戦国武将は方向性が違う。どうすれば上へ行ける? 一発ネタは肌に合わなかった。なにこれかわいいなんて言われる絵柄じゃない。
ミーハー。ジャンルくらい固定しろ馬鹿。そんなんだから、あんたの絵は下層を彷徨う。そこから抜けられないんだ。
「……バカみたい」
脳内評論家の辛辣なコメントが、牛飼いが干草を手際よく積み上げるが如く、あたしの鬱屈を加速させる。人気のあるジャンルは、それだけ競争も熾烈。あたし如きが、手を出してどうにかなるもんじゃない。ランカーなんて、簡単になれるもんじゃない。
何を描くかはディスプレイの前で決める。それだけ決めた頃に、家まで帰り着いた。明日も会議をすることを決めた会議の後のような心境。結局は、何も決まっちゃいない。
何もかも中途半端なんだよ、あんたは。うるさい黙れ。絵を描くのはあたしだ。口を閉じて寝てろ。三流評論家め。
「…………」
そんな、さぞ生気が無かろうあたしの目に、
「何これ……遺跡……?」
非現実が、飛び込んできた。
サイケデリックでエキセントリック。第一印象はそれ。単眼を真ん中に据えた、不気味な、けど惹かれる紋様。インカかマヤかの遺跡に彫り込まれていそう、と言えば、大体のタッチは伝わるはず。青・赤・緑の三色刷り。単眼を赤にしているのがあたし好みだった。
けどその前に、インパクト絶大の紋様が描かれているのがあたしの家の塀だということを、ここで言っておかなきゃいけない。
「人様の家の塀に、何をやらかしてくれるのよ」
「…………」
そして、塀をキャンバスにした張本人の――ドーブルについても。
ドーブル。分類はえかきポケモン。そこら辺の漫画で「絵描き」のシンボル代わりになるベレー帽を思わせる頭で、身長より長い尻尾を繰って絵を描く、風変わりなポケモンだ。「ドーブル」というネーミングが、犬のような面構えにどこか一癖ある絵描きという「イメージ」にかっちり当てはまる。はっきりした由来が無いくせにイメージ通りっていうのが、いかにも芸術家らしい。
ドーブルはオトナとして認められると、背中に足跡の模様を付けてもらう。成人した証ってわけ。ああ、そうそう。この間読んだコピペブログに、ドーブルの足跡には「家紋」としての意味も込められていると書かれていたのを思い出した。ドーブルは「血筋」で足跡の形が少しずつ異なっていて、足跡を見ただけでそのドーブルの「家柄」が分かるらしい。「家柄」が良いドーブルは、必然的に絵も上手いとか。おいおいドーブルにも勝ち組負け組があるのかよマジパネェ。名無しの突っ込みが的確だった。
じゃあこのドーブルはどうかと、背中を眺め回す。
「……×?」
そう、「×」。ドーブルの背中の足跡には、大きな「×」が穿たれているのが見える。足跡を隠すように、はっきりと上描きされていた。「×」の下に隠れた足跡のパーツを繋ぎ合わせ、完成品を頭の中で捏ねる。
(……この足跡、ブログにアップされてた「超勝ち組」の足跡じゃない)
ドーブルが背負っていた足跡は、センセイたちの間で「超上流」と定義されたらしい、とてつもなくいい家柄のものだった。あたしの目を引くほどの絵が描けるのも納得。この芸術家ぶりなら、背中の足跡に「×」を付けるのも一種のアートに決まってる。俺は家に縛られないんだぜ、そんなロック的メッセージ。あたしの作業用BGMはもっぱらトランスだけど。
「…………」
あたしが見ているのも知らず、ドーブルは楽しそうに絵を描いてる。ちっとも手を休めない。本当に楽しそう。絵を描くために絵を描いている。他には何の目的も無い。ただ、絵を描くために絵を描いている。ただ、それだけ。
全身から「楽しい」オーラを出すドーブルを、あたしは遠巻きに眺めていた。
(……何こいつ)
イラつく。楽しそうにしてるのがイラつく。絵を描くために絵を描いているのがムカつく。少しも悩んでいなさそうなのがイラっとくる。あたしが精神安定剤代わりのガムを買いに行っている最中に、こいつは無邪気に塀をキャンバス代わりにしていた。それがムカつく。ムカつくったらムカつく。
何やってんだと叫びたくなる。ドーブルにも、あたしにも。なんで、こいつはこんなにもノーテンキなわけ? あたしが憂鬱を晴らせない間に、なんでそんなに楽しそうにできるわけ? あたしの存在なんてそんなもの? ああ、そうかそうか。
あたしが卑屈にランク入りの手段を考えてる間、ドーブルは自分のためだけにこんな誰得な絵を描いていた。余計に腹が立つ。あたしが負け組みたい。どうしてこうなった? あたしは周りばっかり見て、絵が楽しめない。こいつは自分が楽しめれば良いと思ってる。正常なのはどう見ても後者。人間にできて、ドーブルにできる? バカみたい。あたしはこの絵描き犬未満か。
「何やってんのよ」
感情が言葉になって出てきた。先のことなんかこれっぽっちも考えてなんかない。向こう見ずな言葉。ただ、一言言ってやりたかった。楽しんでんじゃないわよ、と。
身勝手なのは分かってる。あたしはどうせ、絵を素直に楽しめない負け組――
「……キュー?」
「……! あんた……その目……!」
――脳内が沈黙する。言葉という言葉が刈り取られ、すべての神経が目の前の光景に注がれる。
振り向いたドーブルの目は、
両方とも、潰れていた。
「……キュー」
「あ……あ……」
誰だろう、というような声をあげ、気持ち程度周囲の様子を確かめた後、ドーブルはさっさと絵に戻ってしまった。呼びかけたはずのあたしはろくすっぽ声も出せず、両目の潰れたドーブルの姿を、健在な左右の瞳で映し出すばかり。
溜まっていたはずの鬱屈が、ひどくどうでもいい、くだらない、つまらないことに感じられた。目の前の光景は、あまりにも刺激が強すぎた。
ドーブルは「えかきポケモン」だ。名前の通り、絵を描くことを生業にしている。ドーブルにとって絵は生業で、生きがいで、ライフワークだ。彼乃至は彼女の存在価値は、絵に集約される。絵を描くことが、文字通りすべてだ。それがすべてで、それ以外は蛇足でしかない。そういう生き物だ。
絵を描くためにはいろいろ必要なことがある。道具があること、道具を使えること。そして、絵を観られること。
最後の一つの前提条件は――目が見えていることだ。
(……目が……潰れたって事は……)
絵に戻ったドーブルの背中が、またあたしの目に映る。背中には超一流の証の足跡と、それを塗りつぶす「×」のマーク。
コピペブログには続きがあった。絵が描けないドーブルは群れから村八分にされて、そこにはいられなくなるって話。それは絵の腕前だけの問題じゃない。絵を描くこと自体に支障があれば、そこからはじき出されてしまうそうだ。分かりやすい例で言えば――失明、とかだ。
あれは、アートなんかじゃない。こいつは……このドーブルは、群れから切り離されたんだ。
背中に背負った足跡。そこに上描きされた「×」。ドーブルの足跡は成人の証にして、家を背負って立つ証というもう一つの意味がある。確かに、これにはメッセージがある。けど、それは生半可なものじゃない。
否定。完全否定だ。このドーブルが一人前だって事実も、家を背負う存在だって事実も、すべて否定している。真正面から、言い逃れができないほどに。
目が、潰れたから。足跡の完全否定の理由は、そうとしか思えなかった。
「あんた……なんで……」
わずかに顔を覗かせる足跡は、まだ新しさを残している。成人したばっかりなんだろう。描かれている絵を見ても、そこら辺のドーブルでは太刀打ちできない腕前だってことが分かる。それでいて、足跡は超一流の家柄のもの。
いい家に生まれて、若くて、腕も立つ。準備は整った、さあこれからだ――そんな時に、このドーブルは目を潰された。
「なんで……」
失ったのは目の光だけ? そうじゃない。人生の光明も同じ。家を背負って立つ存在が一転、はみ出し者になったわけだ。神様ってのがいるなら、多分それは分別の無い子供のようなものだろう。やっていいことと悪いことくらい分かれ。いくらなんでも、こんなの辛過ぎる。
それだけでも十二分。あたしの身勝手な声を軽々捻り潰す程度の威力はあった。けど、それよりももっと、もっとあたしに訴えかけてくるものがある。
「なんで……あんた、そんなに楽しそうに絵が描けるわけ……?」
楽しそう。本当に楽しそう。絵を描くために絵を描いている。そこには何の雑念も無い。絵を描くこと自体を楽しんで、結果としていい絵が残る。天真爛漫とか、天衣無縫とか、そういう四字熟語のタグをつけたくなる。何の気負いも無い筆遣いには、一切の間違いもない。全部が全部、正解を紡いでいるようにしか見えない。
だから、余計に胸が苦しくなった。差か。これが差か。本当の差か。こんなにも苦しいなんて、思ってなかった。
翻って、あたしの現状を見つめなおす。
伸びないページビュー。社交辞令に過ぎないコメント。沈黙を守るレーティング。それが映していたのは、目的を見失ったあたしの心だ。何のために絵を描く? 注目されたいから? 構って欲しいから? 有名人とお近づきになりたいから? そうじゃない。そうじゃなかったはず。
思い出して。なんであたしは絵を描き始めた? なんで音楽を選ばずに絵を選んだ? なんで持っているペンで文字じゃなく絵を描く? 思い出して。思い出して。思い出して!
(……絵を描くのが、楽しかったから)
……そうだ。そうだった。あたしが絵を描き始めたのは――楽しかったから。それだけ。後のものは、その感情にくっついてきた飾りに過ぎない。
あたしの目は、飾りばかり見て曇っていた。飾りに一喜一憂して、勝手に鬱屈を溜め込んで。根っこの部分を、すっかり忘れていた。
あのドーブルを思い浮かべる。その潰れた目で、何を見ていたか。もう分かっている。絵だ。自分の絵だけを見つめていた。目に映らなくなっても、絵への視線はなんら変わらない。見ていたのは、自分の描いた絵だけだ。
曇った目で本質を見失ったあたし。潰れた目で本質を見つめ続けるドーブル。似ているようで、気持ちいいほど正反対だ。
「…………」
意識を目に戻す。ドーブルは満足したようだ。絵を描くのを止めて、描き上がった紋様を慈しむように撫でている。絵を見つめる。見事だ。見事な出来栄えだ。ドーブルの目に完成品が映らなくても、頭の中にはもう完成品が入っているんだろう。目の見える見えないは、あのドーブルが絵を描くにあたって些細な問題でしかない。
紋様を撫ぜ、全身をこすりつける。手触り、肌触り、匂い、温度。全身で絵を感じている。あのドーブルにとって、絵は見るだけのものじゃない。感じるものなんだ。本当に満足そうな表情をしている。
うらやましい。あんな表情ができるほどの、会心の出来栄えなんだ。見なくても分かる、感じるだけで十分。頬が綻び、閉じられた瞼が細くなっている。すごい、すごくいい表情だ。見ているこっちまで、うれしい気持ちになってくる。
「…………」
十分感触を味わったんだろう。ドーブルが尻尾の筆をぴっと一度はたいて、悠々とあたしの家の前から去っていく。
(足跡……)
背中の×印つきの足跡が見える。成人であること、一流の家に属することを真正面から否定するそれを背負い、堂々とした足取りで歩く。重い意味を持つはずの足跡が、とてつもなく軽い。第一印象で抱いた、ただのアートのようにさえ見える。ドーブルの絵への一途な思いを前に、背中の足跡はなんら存在感を示せずにいる。そんなことよりも、絵を描きたいんだ。そう声高に主張しているように見えた。
ドーブルが消えた後の塀――いや、これはキャンバスだ。キャンバスを、あたしはぼうっと見つめる。
「……ドーブルの絵って、ほっとくと消えちゃうんだっけ」
そうでなくても、こんなものを見たら家族の誰かが消しちゃうに違いない。あたしにとっては運命的で素敵なアートでも、他人にとっては不気味で奇妙な落書きでしかないかも知れない。ダメだ。このまま、他人にこの絵の処遇を委ねるわけにはいかない。
遺さなきゃ。この絵と、この絵の持つ意味を。
「どうせ撮るなら、PCモードの方がいいわよね」
全景を収めるようにアングルを合わせてから、迷わずケータイのセンターキーを押した。
「――できた。できたできたっ」
一週間掛かった。けど、あっという間だった。髪の先から足の爪先まで、全身で絵を描いた。それ以外のことを忘れて、絵だけに没頭、いや没全身できた。随分語呂の悪い造語。苦笑いが浮かぶ。それさえも楽しいのが、今の本音。
「キャプションを入れて、タグをつけて……」
こんなにいい気持ちなのは久しぶり。初めて絵を描き上げたあの時と、ホントにいい勝負。評価が得られなくてもいい。コメントがつかなくたっていい。描いたもの勝ち。一人勝ち。誰得? あたし得!
あたしはあの時抱いた感情を、少しもいじらずにそのままペンタブに、ディスプレイに、ピクシアに叩きつけてやった。爽快な気分。清清しいってのは、こういうことを指すんだと思った。
「そうだ、タイトル……」
必要な情報をすべて入力したと思ったら、一番肝心な情報が抜けていた。この絵のアイデンティティ・名前だ。
「……そうだわ。これしかない、これしかないわ」
一人呟きながら、「半角/全角 漢字」を押してからキーボードを叩く。
あたしの繰り出したタイトルは――
「……『blindness』。『盲目』の絵師が、『盲目的に』絵だけに打ち込む……そう、これ! これしかないわ!」
――ディスプレイには、背中に「×」のついた足跡を背負った瞳の無いドーブルが、夢中になって絵を描いている姿が映し出されていた。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。
※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。
Thanks for reading.
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